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蜀のスレ

*** [ もくじに戻る ] ***



1 :無名武将@お腹せっぷく:2008/07/29(火) 21:22:12
     蜀について語り合おうぜ

42 :無名武将@お腹せっぷく:2009/08/04(火) 23:44:01
     劉備は、益州を手に入れた事で三国鼎立の土台作りに成功したが、
     同時に内部勢力を一気に複雑化してしまった気がする。
     人材的には、法正や張著などの逸材を獲得出来たが・・・・・・
     又、荊州の関羽との連携が、明らかに拙かったのも痛手だった。

     蜀滅亡の鍵は、鳳統・法正の早世と関羽北上現象。

44 :無名武将@お腹せっぷく:2009/08/05(水) 02:10:20
     鳳統・法正が存命なら、荊州戦線での関羽の動向は変わっただろうか?
     この二人の場合、鳳統が関羽と荊州に置かれると思うんだが。
     関羽の補佐役+荊州の士大夫層に顔が利く人間として。

45 :無名武将@お腹せっぷく:2009/08/05(水) 02:27:57
     >>44
     うーん上手くいかなそ

46 :無名武将@お腹せっぷく:2009/08/05(水) 06:15:10
     ホウ統は諸葛亮よりオベッカも上手いのでたぶん大丈夫

47 :無名武将@お腹せっぷく:2009/08/05(水) 08:08:07
     ホウ統は諸葛亮より軍事が上手い分もしかしたら北上が上手くいったかも?

48 :無名武将@お腹せっぷく:2009/08/06(木) 00:39:56
     >>47
     そもそも、単独北上なんてさせない気もするが・・・・
     決行するとしたら、呉との関係が重要になるのは確かだろう。
     ホウ統の呉に対するコネは、どの程度だったのか。

49 :無名武将@お腹せっぷく:2009/08/06(木) 00:49:16
     ホウ統は諸葛亮より軍事が上手いなんて全くの無根拠
     そんなこと言ってたら厨と思われるよ

50 :無名武将@お腹せっぷく:2009/08/06(木) 11:53:54
     上手かったのは諌言の方かもな

54 :無名武将@お腹せっぷく:2009/08/07(金) 02:23:20
     諸葛亮は、有能な政治家であると同時に戦略家としても優秀だったと思うよ。
     直接的な軍事レベルの戦略になると、微妙かも知れんが。
     ホウ統は、ただ運が悪かったのか、評判ほどの才能じゃなかったのか・・・・・・
     とにかく、死ぬのが早すぎた。

55 :無名武将@お腹せっぷく:2009/08/08(土) 00:02:35
     微妙なやつがシ号を送られることは蜀の事情から考えてありえん気がする

58 :無名武将@お腹せっぷく:2009/08/08(土) 08:45:47
     >>55
     それには陳祗が微妙でないという証明から始めるべきでは?

     これまで法正と諸葛亮以下3代の宰相しか送られていなかったのに
     親族扱いで夏侯覇、格落ちだが寵愛していた陳祗に送られている

     陳祗のホウ統の息子に対する出世妨害ネタも正史に残っているので
     上記2名の追諡に対する反発を抑える意味合いも
     ホウ統および後の五虎将に対する追諡にはあるのではないかと

59 :無名武将@お腹せっぷく:2009/08/08(土) 09:26:26
     そいつらに追諡するのにホウ統他五人に追諡しないのはおかしい
     という程度には優秀だったのだろう。
     黄権も残れてたら追諡されたろうな

64 :無名武将@お腹せっぷく:2009/08/08(土) 10:38:17
     >>54
     ホウ統は陳平みたいな謀略家であって、天才政治家でも天才戦術家でもないと思う
     ただ、ホウ統は呉の有力者の友人・知人が多いから、外交官としては活躍が期待できるだろう

69 :無名武将@お腹せっぷく:2009/08/11(火) 03:50:25
     物語にするなら、蜀というか劉備が一番ドラマチックだろうな。
     曹操も小勢力から成り上がったが、劉備の方が身分的にも民衆に近いし。
     孫権も三代の苦労なんかがあるだろうけど、曹操と劉備に比べてしまうと
     地味なんだよな・・・・・。

     蜀は固い地盤があるんだから、北伐自重してれば・・・・・って気持ちがある。
     北伐は、馬謖みたいな人材や兵力を失っただけだし。

70 :無名武将@お腹せっぷく:2009/08/11(火) 23:57:54
     引きこもりは忘れられる
     四川だけで固まってても中原が固まればあぼーん

73 :無名武将@お腹せっぷく:2009/09/04(金) 04:20:42
     北伐自重していても蜀が滅びるのが早まってただけだと思う
     結局侵略されて滅びたわけだし

85 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/02(金) 01:49:16
     北伐時のルートがすさまじいな。
     シンレイ山脈超えで、補給部隊も山登りって、そりゃ兵糧不足にもなるよ><

88 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/21(金) 13:49:25
     蜀は華北進出を考えずに防戦していればよかった
     統一側には回れなくても延命は容易だったはず

89 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/21(金) 23:07:24
     公孫述みたいになるのがオチ

95 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/02(水) 17:31:27
     南征前の蜀って、上半分くらいの領土だったんだね><
     そんなんで魏に対抗しようなんて。・゚・(ノД`)・゚・。

96 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/02(水) 17:42:28
     領土国家と都市国家の端境期みたいな時期だから
     単純な面積で考える方が野暮ってもんよ

97 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/02(水) 22:35:29
     >領土国家と都市国家の端境期

     そ、そうなの?
     比較は国土面積じゃないのは分かるけど

98 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/21(月) 19:58:12
     >>97
     領土は面でなく点、点と点を結んだ線
     この程度しかロクに掌握できてない

99 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/21(月) 20:38:50
     関羽の荊州失陥が結果的に上庸の損失にまで繋がり、兵力面では張飛の死に続き、
     夷陵の大敗で戦死者も計り知れず。
     主君の劉備も死亡。

     蜀興亡のターニングポイントとなった関羽の北上ってのは、何だったんだろう。
     蜀の大戦略である両面攻撃に備えての拠点確保だったのか?
     手柄を焦った関羽の独断専行?
     全て呂蒙の術中だった?

100 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/21(月) 20:45:35
     いや見事な作戦だし
     独断専行なわけもない

101 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/21(月) 20:50:17
     劉備は荊州にどうして有力な将軍を残していかなかったのだろうか?
     関羽の副将になれそうな。趙雲クラスの将軍がいれば、
     だいぶ戦局変わったような気がするのだが。

102 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/21(月) 20:56:19
     負けたから名前残らなかっただけだろ

105 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/21(月) 21:54:20
     >>102
     そうかね?雑号将軍クラスの副将がいたら、
     名前だけでも残りそうなものだが、
     関羽の軍中に有力な将軍がいた形跡はないな。
     あと、負け戦側の有力な将軍って、
     勝った側の記録に○○を破った、○○を斬った、○○を捕えた、○○を降伏させたって感じで、
     案外名前残るもんよ。

106 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/21(月) 23:36:35
     >>105
     麋芳・士仁・孟達だね。
     三人とも江水沿いの要所を守ってる。

     趙雲と比べて…と言うかもしれないが、そう見えるのは趙雲が失敗せず忠勤を続けて出世して生涯を終えたから。
     入蜀当時では役割として関羽・張飛が突出してるだけで、他の将は大差ない。

107 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/21(月) 23:39:39
     >>106
     いや、後方じゃなくて、関羽の樊城包囲の軍中にだよ。

108 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/21(月) 23:43:48
     関羽がいるのに将軍クラスの高官が同道する必要ないんじゃない?
     荊州に五人も十人も将軍がいたならともかく、
     数人しかいないなら、後方拠点(麋芳)や別働隊(孟達)の指揮官に当てるのが
     優先する。

109 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/21(月) 23:50:01
     ・宛で候音が反乱、曹仁が鎮圧
     ・劉備、漢中制圧
     ・劉封、上庸制圧
     ・劉備、漢中王即位
     ・関羽、水陸から北上開始
     ・関羽、樊城を攻める
     ・于禁率いる七軍到着、水没→投降
     ・ホウ徳を斬る
     ・樊城、完全包囲
     ・さらに、襄陽包囲へ
     ・魏諷の反乱
     ・呂蒙&陸遜、荊州攻略開始
     ・関羽軍本拠陥落
     ・徐晃、関羽撃退
     ・樊城解放
     ・襄陽解放、関羽撤退
     ・関羽、麦城篭城
     ・関羽&関平捕縛→斬首

110 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/21(月) 23:57:13
     >>105
     遊撃部隊を率いてて夏侯惇に負けた呂布が誤字扱いされてほとんど省みられなかったりするし
     やはり負けた+関羽の名前がでかすぎたってところだろ

111 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/22(火) 00:08:24
     >>108
     いや、仮にも前将軍が数万の大軍を率いているのだから、
     逆に軍中に数千の兵を率いるレベルの将軍が何人かいないと不自然。
     まさか、前将軍の関羽が中間管理職の将軍すっ飛ばして校尉や司馬を直接指揮するの?

112 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/22(火) 00:13:50
     >>111
     当時の劉備の野戦指揮官にそんな多数の将軍自体存在しないよ。

     それから、関羽の前将軍は「三品」じゃないからね?
     劉備の漢中王即位に伴って王廷に移動したものであって、
     漢朝廷の諸将軍と比べて階級が高くなったわけではない。

113 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/22(火) 01:54:55
     階級といえば、軍師将軍の諸葛亮は法正よりも下位だったな。
     隆中対だと、関羽北上に合わせて関中にも進軍する戦略になっている訳で、
     それが無かったのは諸葛亮戦略自体が見直されたからなのか?
     それとも、最初から隆中対なんて無かったのか・・・・・・・

114 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/22(火) 03:50:52
     蜀側としても何もしてないわけではなく孟達とか使って関羽のサポートはしてる
     孟達は無茶な要求に答えられなかったせいで何か戦犯扱いだけども

     関羽北上、孟達北上で見事に関羽との同時侵攻で魏に対処させてない

115 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/22(火) 07:19:39
     >>113
     諸葛亮の方が上位だよ
     諸葛亮は九卿級や関羽らよりも上

116 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/22(火) 12:03:02
     >>115
     軍師将軍はそんなに高い官位じゃないんじゃないかな?
     劉備が蜀平定後にバラまいた雑号将軍と同列。
     六朝時代も最下級の将軍号だったし。
     むしろ、署左将軍府事の方が重要だろう。
     これで官位にとらわれない劉備の片腕としてのポジションを確立した。
     漢中王即位後も劉備の漢中王府を取り仕切っていたのだろう。
     諸葛亮は将軍に太守を兼任した法正や関羽や張飛と官位の上では同格だが、
     実権では劉備の片腕として幕府を取り仕切る諸葛亮が上。

117 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/22(火) 13:55:05
     >>116
     実権は諸葛亮が上だというのは、何か根拠が?
     確かに蜀の内政立て直しは主導的役割だったかも知れないが、軍事戦略面では
     どうだったんだろう・・・・・
     関羽と孟達の同時侵攻作戦にしても、事前に段取りとか無かったみたいだね。
     示し合わせていたのなら、孟達が急に拒むはずもないし。

118 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/22(火) 14:10:31
     >>117
     内政での実権ね。劉備が外征している間、成都を守って政務をとり、兵站を担当したのは諸葛亮。
     一郡の太守であり参謀である法正や、太守と将軍を兼ね、外征に従ったり拠点を守ったりする張飛より、
     政治面では重要だよ。これに次ぐのが荊州を取り仕切る関羽か。
     劉備存命時の諸葛亮は曹操にとっての荀のようなもの。
     軍事戦略面は法正がトップだったと思うけど、戦略のトップと政治のトップでは、政治のトップの方が上。

119 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/22(火) 14:15:30
     軍事戦略面は法正がトップだったという根拠は?
     謀臣ならほかにもいたが…漢中戦では元々は黄権の立てた計画にそって作戦を立てていたそうだけど。
     あと法正は内政でも活躍してるみたいだが。
     諸葛亮が内政トップという根拠も教えてほしい

120 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/22(火) 14:41:22
     >>119
     法正は益州平定戦でホウ統とともに益州奪取の謀臣を務め、
     その功で新参ながら諸葛亮・関羽・張飛と同等の恩賞を受けている。
     漢中攻略を進言し、参謀として劉備に随行。夏侯淵を討つ計略を立てる。
     劉備東征時の諸葛亮の嘆きを見るに、劉備陣営の戦略において、
     法正は諸葛亮以上の発言力があった模様。
     蜀には他にも謀臣がいたが、その中で法正の劉備に対する影響力と地位は群を抜いている。
     漢中攻略の計画には多くの謀臣が参与したけど、黄権は官位と劉備に対する影響力から考えて、
     その中の一人であって、トップでは無いでしょう。

     法正の内政面での役割は蜀郡太守や尚書令を歴任した事と、蜀科制定に加わった事だが、
     これは君主の留守の間、君主に代わって政務を取り兵站を担当するというナンバー2クラスで無いと
     任せられない仕事には及ばない。これはきちんとした王朝なら、宰相が担当する仕事。
     また、劉備が首都にいる間も署左将軍府事だから、
     劉備の政治面での片腕としての職務を任せられてる事が分かる。

121 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/22(火) 14:47:43
     なるほど、でも

     >劉備東征時の諸葛亮の嘆きを見るに、劉備陣営の戦略において、
     >法正は諸葛亮以上の発言力があった模様。

     これは『法正は趙雲・黄権以上の発言力があった』ならわかるけど
     なんでこれが諸葛亮の発言力の無さの話になるんだ?
     というかこれそもそも劉備の発言じゃないけどね

122 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/22(火) 15:13:07
     >>121
     諸葛亮は夷陵の敗北後、諸葛亮は「法正がおれば、主上の東征を止められただろう。
     もし東征を行ったとしても、今回のような大敗は必ずや避け得ただろう」と言っている。
     これは諸葛亮も東征を止めたかったけど、丞相であるにも関わらず止められなかった事、
     しかし、法正の軍事戦略に関する発言力なら止められただろうし、
     東征があっても法正が軍事戦略に関与していれば
     必ず大敗を止めることができただろうという諸葛亮の見解を示している。

123 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/22(火) 16:09:19
     >>122
     >これは諸葛亮も東征を止めたかったけど

     そりゃ根拠のない推測じゃん、諸葛亮が東征を止めたのは演義の話でで正史には書かれていない
     元々諸葛亮が描いていた戦略は荊州と益州で魏に対抗するというもの
     東征が失敗に終わって詰んじゃったけど

     まだ官位が法正の方が上だからって言われた方が分かる

124 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/22(火) 16:31:39
     >>123
     「法正がいれば止められたのに」って言ってる人が、
     孫権攻めに賛成だったとは思えないが。
     内心反対だったけど自分には無理だから止めなかったってとこじゃね?

     官位で言えば、諸葛亮は丞相・録尚書事。死亡時の法正は護軍将軍・尚書令。
     どう見ても諸葛亮の方が上だね。
     でも、官位が上の諸葛亮は「法正がいれば止められた=自分には止められない」って言ってた。
     軍事での発言権は法正の方が上だったんでしょ?護軍将軍という高位の将軍号帯びてるし。

125 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/22(火) 17:18:03
     孔明が丞相になったのって、劉備死後では?

126 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/22(火) 17:20:31
     >>124
     「法正がいれば止められたのに」じゃなくて
     「法正がいれば止めたであろう、たとえ東征しても惨事には至らなかっただろう」
     じゃないの?読み手の主観で文章の意味を変えてないか?文章の中に諸葛亮の意志は入ってないと思うが。
     これからは諸葛亮は法正を無茶苦茶高く評価していたって事がわかるだけ。

     なるべく主観は排除するべきだと思うんだ。読み手によって異なるものだから。
     自分と当の本人との感覚が同じとは限らない。
     法正は参謀筆頭だったとは思うんだけど諸葛亮の発言は根拠とはなりえないな。
     大体、発言する人が上とか下とかじゃなくて発言内容で良い案なら採用する、
     悪けりゃ却下…って考えるのが優れたトップなんだろうにねえ。

     諸葛亮が丞相になったのは法正の死後だろう。法正生存時の同時期で比べないと。

     >>125
     劉備生存中のはず。劉備が皇帝になったから、諸葛亮が丞相に、ってことで。
     法正の死後だね。生きていても諸葛亮が丞相になっただろうとは思うけど

127 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/22(火) 18:02:52
     法孝直若在、則能制主上、令不東行、就復東行、必不傾危矣。

     原文ね

     法正がもし居たら、劉備を上手く取り成して、東征の命令を出させなかっただろうし、
     また東征したとしても、必ず危機は回避した筈だ

     軍事上の不利を見切ってる法正だから、居ればよかったなぁ程度じゃねーの、これ
     曹操の郭嘉への評価と一緒でつまり後の祭りって奴だ

128 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/22(火) 18:14:15
     >軍師将軍はそんなに高い官位じゃないんじゃないかな?
     >諸葛亮は将軍に太守を兼任した法正や関羽や張飛と官位の上では同格だが、
     113が「法正の方が上」と言ったから反対して「諸葛亮の方が上だよ」と答えたんだけど。
     この当時の劉備の部下は確かに皆二千石将軍だろう。
     しかし漢中王推挙と皇帝推戴の時の上表の序列から諸葛亮の序列の高さがわかる。
     簡雍伝らと比べると、許靖・麋竺・簡雍ら「賓友」グループに次ぎ、実権集団のトップ。
     関張やのちに九卿になる恭らの上。

     法正は、漢中王即位後に尚書令・護軍将軍として王廷に入る。
     王臣として直属し、劉備に出入りする文書を掌り、劉備のために諸軍を監察し、
     謀議に参与するという側近第一の役を担う。

     一方の諸葛亮は外に留まり、「不臣」の地位を保つ。「相」と呼ばれ、
     劉備不在の軍権を代行し、呉との外交使者を選任する権限もあった(馬良伝)。
     漢の丞相がそうだったように、行政を総括する職掌となる。
     ただし、同じ「署左将軍(大司馬)府事」の董和がいるので、全権委任とは行かなかっただろうが。

     こうして内と外のバランスを取った組織化を行い、強力な「君主」である劉備が二者の上に立つという
     システムをとったと見られる。
     これは武帝から発達させて来た漢官制をかなり踏襲している。

129 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/22(火) 20:50:23
     >>128
     諸葛亮の序列の高さは、軍師将軍じゃなくて、
     署左将軍府事と言う地位のおかげじゃないの?
     軍師将軍自体は単なる将軍で、
     軍師将軍という官位単体では、
     九卿や他の将軍より抜きんでた地位にはなれないと思う。

130 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/22(火) 21:46:08
     府事は職掌を示すものであって、官位ではないと考えられる。序列の高低に影響しないだろう。

     「階級」と「序列」は違うからね。
     同じ秩石内にも宮廷序列がある。
     漢中王の前後左右将軍や九卿が、漢朝廷のものより一段低い二千石だとするならば
     二千石将軍と同級で、その中で序列の高低がある。
     先主伝以外にも、簡雍伝などから、許靖>麋竺>簡雍>諸葛亮ということなどがわかる。

131 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/22(火) 22:01:34
     >>128
     113は「軍師将軍」諸葛亮と「尚書令」法正を比較しているのでは?
     (関羽北上の時の話をしているから特に問題はないのでは?)

     諸葛亮と同じ署左将軍府事だった董和は掌軍中郎将止まりだから,
     その董和がトップにいる軍府の権限はそれほど高くなかったのでは?
     (季漢輔臣賛でも「掌軍」と呼ばれているからこれが最高位だろう。)

     あと馬良は諸葛亮に対して「国命を受けたので云々」と言っているから,
     諸葛亮に命令された訳ではないのでは?

132 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/22(火) 22:27:48
     >>131
     董和は諸葛亮と同格ではなく、諸葛亮の補佐だったことが蜀書から見て取れる。
     あと、劉備の左将軍府は後漢の高官で大名士の許靖が長史を務め、
     他にも多くの有力者が属官に名を連ねている。
     左将軍府は絶大な権限を持っており、
     その職務を統括する諸葛亮の権限もまた絶大だったと思われる。

133 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/22(火) 22:57:19
     >>131
     尚書令はもっと低いよ。漢でも千石。
     董和の件は>>132に同意。
     署左将軍府事は官位でもなく序列も示さない(正確には「加官」という)なら、
     董和が中郎将のままだとしても軍師将軍諸葛亮の序列には何も影響はない。

     外交方針を決定して発令するのは、当然劉備。
     諸葛亮は、その「国命」を受けて、左將軍掾(この時期は大司馬府掾になっていただろうけど)の馬良と相談し、
     外交使者に馬良を立てることを決定することができた。
     つまり君主の命を受けて外交実務を執行する権限を持っていたということ。
     その執行に府の掾属を使うことができた。
     これが諸葛亮に分署された「府事」の一つということになる。

134 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/22(火) 23:48:10
     階級の比較もあるけど、結局の所、軍事戦略面では法正の方が諸葛亮よりも
     発言力があったのかどうかが>>113の焦点だろう。
     諸葛亮が内政、法正が軍事戦略の中心人物だったという認識でいいのかな。
     東征云々の記述は、諸葛亮が法正の名を最初に出している点から、軍事面で
     高い評価をしている事が窺える。
     さらに言えば、諸葛亮自身が自分よりも法正の戦略眼を上に見ていた?
     この辺りは、単に成都で釘付けの自分以外に誰かいるとしたら~って感じ
     だったかも知れないが・・・・・・・・・

     そこで、隆中対の話に戻る。
     2方面からの同時侵攻作戦だが、関羽北上に合わせた侵攻作戦は無かった。
     上庸の動きが無かった点から、そもそも関羽の単独北上だったと思われる。
     これは、隆中対から逸脱しており、関羽の独断行動では?という話。
     独断で無かったとすれば、隆中対については以下の可能性が考えられる。
     ・後年の創作
     ・戦略の路線変更
     後者だとすれば、法正が関与していた可能性は大きいと思う。
     そして、関羽北上が法正の戦略だったとすれば、彼は何を考えていたのか。

135 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/22(火) 23:52:32
     関羽の樊城包囲は陸中対に示される中原奪還作戦に基づくものではない。でおk。

     これは漢中と襄樊を漢水で連結し、国境線を敷き直す作戦であって、
     曹操打倒のための北上ではない。

136 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/23(水) 01:01:00
     >>135
     では、この作戦自体はどこから来たのか・・・・・・というのが気になる。
     確かに襄樊を確保すれば、中原への道が大きく開けるだろう。
     それだけに、魏の抵抗も予想出来る。
     又、呉との外交関係は破綻している様なものなので、こちらの備えも重要。
     これら全てを、ほぼ関羽の荊州だけに任せた上での作戦だったのか?
     隆中対に至る重要作戦であると共に、かなり危険な軍事行動だった気が
     するんだが。

137 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/23(水) 05:56:52
     >>136
     呉との外交関係が破綻していたとは思っていなかったのでは。

     関羽本人は陸遜が出てくるまで警戒していたけど,
     劉備や諸葛亮らが呉を警戒していた形跡ってあったっけ?

138 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/23(水) 07:47:12
     >>136
     陸中対に載ってるよ。ベン・漢の険に拠って体勢を整え、天下の変事を待てと

139 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/23(水) 13:17:13
     >>137
     呉を警戒しているどころか、関係悪化していることを理解していた節もない。
     劉備も諸葛亮も益州に行ってからは、荊州の事など忘れてしまったかのように、
     関羽を矢面に立ててほとんど荊州を顧みていない。

140 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/23(水) 19:20:11
     >>137>>139
     劉備なんざ漢中戦前に数万率いて荊州に戻ったことあるわけで
     関係悪化を理解してないどころか、自分でぶん殴る気満々だが

141 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/23(水) 19:38:54
     関羽もぎりぎりまで呂蒙を警戒していた。
     于禁水没という「幸運」によって攻撃の長期化と関羽の気の逸りに加え、
     呂蒙・陸遜の計略が重ならなければ、
     勝てなかったとしてもそう大敗する要因のない戦だった。
     呂蒙らが上手だったってことだね。

143 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/23(水) 20:42:11
     >>140
     それは215年に呂蒙に荊南を奪われた時の話であって,
     その時に荊州を再分割してからは文字通り何もしていないのだから,
     その後は油断していたということではないのか?

144 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/23(水) 21:34:41
     >>143
     一度敵対行動を火事場泥棒的なタイミングでやられた劉備がそうそう警戒を解くわけがない
     少なくとも孫権は横合いから平気で殴りつけて来る奴だと認識してるわけで
     一度同盟組んだらもう全面的に信用、なんて程あまっちょろい経歴の持ち主ではないだろ

145 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/23(水) 22:07:42
     その後、孫権は曹操(漢)に臣従しているわけだからね。
     だから関羽も呉に対してほとんど敵対的な行動を取ってきた。
     その状況が変わったのは、陸遜が、
     「于禁を捕虜にするという大功を挙げたあなた様の活躍に私どもも感服しました。
     自分は青二才ですがいずれあなた様と共に戦う日も来るでしょう。へっへっへ」
     という手紙を関羽に送ったから。明白に対荊州強硬派だった呂蒙が抗争されて、
     荊州の軍事に関わっていない陸遜が後任にやってきてこう述べたのだから、
     孫権の正式な外交方針変換の前触れと関羽には見える。
     それを信じた関羽は警戒を解いて南郡の守備を輸送に回した。あとは奇襲で瞬殺。
     時間的に成都が関知する余地は殆ど無いね。

146 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/23(水) 22:08:38
     ×抗争 ○後送 (笑)

147 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/23(水) 23:07:42
     やはり、呂蒙&陸遜が一枚上手だったという事か・・・・・・
     王甫みたいに、それでも呉の動きに警戒していた人物もいたと思うが、
     関羽は陸遜を完全に侮っていたみたいだな。
     「ホウ統がいれば~」って意見も多いが、彼は陸遜知っていたのか?
     知っていたとすれば、関羽の行動も又違っていただろうか。

     以前、関羽スレでも議論されたが、于禁七軍の敗北は偶然だったのか。
     状況的には幸運が重なってるが、関羽の対応も見事だったと思う。

148 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/23(水) 23:53:26

     >法孝直若在、則能制主上、令不東行、就復東行、必不傾危矣。

     法正がもし生きていたら、劉備を制して(制することが出来て)、東征させなかったろうし、
     たとえ東征したとしても、必ず傾危しなかった筈だ…。  


     令は「させる」
     就は「もし」「たとえ~でも」
     復は「実行」「同じくり返し」
     傾危は 今の蜀の状態。つまり「必不傾危矣」は「絶対ここまで悲惨な事にならなかった筈だ…」


     "能"がポイント
     『法孝直若在、則能~ ~ 』
     「止めたであろう」ではなく「止められたのに」が正しい



     諸葛亮は東征が成功すると思っていなかったようだ

     しかし止めなかった
     それは、止めても無駄、劉備は止められないと分かっていたからで
     それでも法正なら止められると考えた
     これは出征の是非が、理屈ではなく劉備の性格に因っているということ


     法正が「反対」と一言いさえすれば、劉備が出征を取りやめたかというとそうは思えない
     法正が「こうこうこうだから止めるべきです」と理屈を説けば、劉備は取りやめた と思える
     理屈は他の人間でも説ける 諸葛亮にも当然出来ただろう
     また夷陵で黄権が忠告したが劉備は従わなかった
     これも黄権でなく法正だったら劉備は従ったかもしれない
     つまり言説ではなく法正であることが大事ということ

     「劉備は法正の言うことなら耳を傾ける」と諸葛亮は考えている

     勿論、その法正は、"護軍将軍"ではなく、劉備が軍事面でも信頼する"法正という人間"だよ
     だから官位の上下は関係ない

149 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/23(水) 23:56:01
     ちなみに諸葛亮の組織での本当の順位は NO.1'


     もちろんNO.1が劉備なのは言うまでもないが

     諸葛亮は軍師将軍という1将軍ではなく「軍師」
     軍師は王のアドバイザーで、王の体の一部と言える  
     軍師は王に代って、王としての優れた知恵を出す
     王の脳みそだから実権はない
     純粋な「軍師」は文字通り、王の臣下ではなく、王の「先生」 
     主従関係にない
     それが「軍師」というもの

     本来そうだが現実として軍師も王に従う
     諸葛亮が官に初めて就いたのは軍師中郎将としてだった
     つぎが軍師将軍
     軍師もある程度兵権がないと何かと不都合だろう
     だから中郎将・将軍として兵権を与えるのだろう
     諸葛亮のは本当の中郎将・将軍ではなく、兵権を持たせる名目的な加官と考えられる
     軍師中郎将を作ったのは劉備という話だしね
     ちなみにホウ統も諸葛亮と同時期に軍師中郎将だった
     普通の○○中郎将は何人もいない

     だから諸葛亮を「軍師将軍」という1将軍として見ることは意味がない

     益州牧・漢中王時代の諸葛亮が相であったのは間違いないがその官位・職名は不明
     署左将軍府事ってのは職名じゃないし
     漢中王時代そこは「署漢中王府事」  それすら書かれてない


     しかし諸葛亮がかなり偉かったのは
     関羽への手紙のエピソードや簡雍伝からも分かる


     まとめると
     ・法正は劉備に対し諸葛亮より軍事面での発言力があった
     ・それは職位・官位からではなく、劉備の性格に因る
     ・諸葛亮は張良+蕭何、法正は陳平
     ・諸葛亮は劉備が外へ出るとしたら自分は留守番、一緒に行くのは法正と思っていた

150 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/23(水) 23:57:16
     >関羽北上
     これはおそらく劉備たちが立てた作戦だった
     漢中攻めの前の段階で関羽の北上も計画されたんじゃないかな
     遠い漢中に曹操を誘き出して疲れさせ
     勝っても負けてもその後襄樊に攻め込めば
     曹操軍は疲労の為にすぐに大規模な援軍を送る事ができず、有利に戦いを進められる
     漢中で勝てば尚よし、勝てなくても襄樊を有利に戦える
     という2段仕込みの作戦だった
     誤算は呉が腐りきった奴だったこと
     価値観の違う人間のやることは予想できない
     漢朝復興・魏打倒に燃える劉備たちにとって
     江陵のような寸土を呉がそこまで欲しがるとは思ってなかったのだろう
     一緒に魏を倒せば領土なんて江陵の何倍も切り取れる
     逆に今呉が蜀の足を挫けば2国に未来はなくなる
     聖戦に臨んでまさか目先の領土欲しさに裏切るなんて考えてもみなかっただろうね

     燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや
     ならぬ
     鴻鵠いずくんぞ燕雀の志を知らんや

153 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/24(木) 00:08:08
     >>147
     偶然じゃなくて必然的な勝利だよ
     関羽一人の功績じゃあないけどもね

158 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/24(木) 00:32:44
     于禁七軍は北方騎馬兵中心なので、泳ぎが不得手だったと思われる。
     又、荊州の土地勘も無かった。
     対して、関羽は水陸両軍で北上していた為、船団を有していた。
     さらに、荊州で長年駐留していた事から、関羽に土地勘があった可能性は高い。
     大雨→川の氾濫を予想出来るだけの経験と知識はあっただろう。
     于禁の方は、樊城周辺の平地に陣取っている所からも、川の氾濫に対して警戒が
     薄かった気もする。
     出身地によっては、やはり大雨で川が氾濫するという流れに疎かったかも。

180 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/24(木) 11:19:07
     諸葛亮伝より、諸葛亮の内政手腕に関わる記述

     ・零陵・桂陽・長沙三郡を治めさせ、その租税を徴発することで軍資に充てさせた。
     ・先主が外征するたびに、亮は常に留守居として成都を守って内政に務めたので、
      兵糧・兵員に事欠くことがなかった。
     ・国内では南越を平定し、法律を制定し制度を施行し、軍隊を整理した。
     ・偏私なき刑罰と簡明なる政策方針とをもって人民を教導した。
     ・決定した賞罰は必ず信頼され、悪をなして罪を免れるものはなく、善を行って評価されないものはなかった。
     ・役人が不正を行わず、人々が自ずと勉励の志を抱き、路上の遺失物を拾うものもなく、
      強者が弱者を凌ぐことがないほど倫理観が高かった。
     ・教化が敷き及び人民が慎んで実践した。
     ・蜀の人民はかれを追慕し、かれのことを昔語りにしている。
     ・今日なお梁州・益州の民で亮を述懐するものの話を聞くと、
      ついこのあいだ亮の言葉を聞いたばかりかのように語っている。
     ・人民を安んじて条理に適った規範を示し、官職を整理して戦時に見合った制度を建て、
      誠実な胸襟を開陳して公平の道を布き及ぼした。
     ・忠誠を尽くして時世に益となるものは例え仇敵であっても必ず賞し、
      法律を犯して職務に怠慢なるものは例え親戚であっても必ず罰し、
      いったん罪に服して心を入れ替えたものは例え重篤であっても必ず釈放し、
      浮辞巧言を弄んで人を惑わすものは例え軽微であっても必ず断罪した。
     ・善行があればどんなにわずかなものでも賞しないことはなく、
      悪行をなせばどんなに小さなものでも処罰しないことはなかった。
     ・諸事に精通していて、物事に対してはそれぞれ根本を追及し、評価に見合った内実があるかを見極めて、
      虚偽ある場合は歯牙にもかけなかった。
     ・このようであったので領内では誰もがいくぶんの畏怖を覚えつつもその人となりを愛し、
      その政治と刑罰とは峻厳な一面があったとはい     え怨嗟が上がらなかったのは、
      つねに公平無私を心がけて勧善懲悪の裁定がはっきりしていたからである。

     まあ、具体的な政策ではなく国政全般を見る宰相としては相当なもんでしょう。
     具体的な政策については、王連伝のようにその政策を担当した官僚の伝記に載ってるんだろうが、
     それを全部拾うのはさすがに辛い。

181 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/24(木) 13:44:15
     法家のバケモノって印象だな
     反面、政策通ではないんだな…
     王連が亡くなって以降、制度やらなんやらの話自体消えるもんな…

182 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/24(木) 18:44:34
     >>181
     政策通でもある

     蜀科の制定は諸葛亮主導で行われてるよ

184 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/24(木) 19:38:14
     諸葛亮の政策


     占領当時の益州は、前支配者劉璋の暗愚で惰弱な支配によって官僚組織はまともに機能を果たされず、
     民衆の貧しさは目を覆うばかりの状況に在った。更に、官僚と結び付いた地主が肥え太る。
     弱い者は益々悲惨になるという状況下に在った。
     圧倒的な武力を以て益州を占領し、圧倒的な権力を持った政治支配で国を建て直そうとした孔明でさえ、
     構造改革には苦労する。富裕豪族である抵抗勢力を根絶やしにする事は難しかったのである。
     三年もの時間が必要であった。
     孔明は先ず、一時的に国境を閉ざして鎖国状態にする。外圧を除いてから国内の生産力を回復させ、
     経済を復興させて物価の安定を計る。国民に活気を取り戻させ、生活を安定させた。其の上で行政改革を
     行う。思い切った人材の登用、権力者や悪徳官吏の黜除、行政組織の簡素化等の施策を次々と打って、
     行政改革を徹底的に断行したのである。

185 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/24(木) 19:39:32
     当時は農本社会であった。農業が国の基本産業である。農業生産を上げて先ず、食い物を確保せねば
     ならない。劉備と孔明が進出した前後の益州は、虐げられた農民は貧しく、生産意欲も上がらず、
     国家は疲弊し切った状態であった。 

     農業生産を上げて民衆の富を増やし、彼等に活力を付ける事が急務である。
     多少強引でも悪徳官吏を追放して地方豪族から既得権益を採り上げねばならない。
     "構造改革断行。”と孔明は考えた。 "務農殖谷,閉関息民”{農耕に務め穀物を増産し、国境を閉じ
     民を休ませる。}を第一政策に採用して国力回復に乗り出した。鎖国をして外からの圧力を排除し、
     国内に平和を取り戻すということで、戦争が起こる懼れを無くして民に安心感を与えて
     農業生産を上げる事に専念させたのである。
     農業生産を上げる事は簡単である。つまり耕地面積を増やす。労働力を増やす。灌漑を整備する。
     此の三点を確立すれば、生産力は上がる筈である。春秋時代の秦国が巴蜀を征服統治した時代、
     太守として赴任した水利の専門家李泳親子が都江堰という堰を築いて蜀を「沃野千里」と呼ばれる
     豊穣な地に変えた。しかし孔明の当時、堰はかなり荒れ果てていた。孔明は此の都江堰の整備を行う。
     担当官吏を任命し、その下に千二百人の堰管理員を置いて補修管理を徹底して更に延長工事を行った。
     此の治水事業を進める一方、低地の洪水地帯を農地に変える干拓事業、灌漑整備を行って農業生産を
     上げる政策を推し進めた。成都の西北の柏河に孔明が築いたと謂われる "諸葛堤”、或いは"金堤”と
     呼ばれる長堤が今も残っている。

186 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/24(木) 19:40:42

     封建時代は兵士は農民から徴兵された。此は中国でも日本でも変わらない。兵士として徴用されると
     人手不足の農地の生産力は落ちる。此を解決するのが屯田兵制度である。兵士は平時には田畑を耕す。
     一朝事が起こると武器を持って戦闘に参加する。更に、屯田兵に荒れ地を開拓させて農地を増やした。

     戦争の起こる可能性が遠のいた時期だけに兵士を農耕作業に活用出来る "休士勧農 分兵屯田”を
     スローガンに、"兵農合一”政策を押し進めて労働力の確保を計る。農繁期には兵士が農業に従事する、
     或いは農作業に人的な補助を行って生産量を増やす。農閑期には農民が兵士として訓練を受けて
     兵力増強を計る。一石二鳥の効果が実現したのである。屯田兵制度の推進は、他方で富裕な地主や
     地方の豪族達の力を弱める効果をもたらした。農民も生産物の何割かを国家へ税納するだけで好く、
     自分の取り分が増える。豪族の下で小作をするよりも収入が増え、働く意欲が増加する。当然、生産量が
     上がる。という図式になったのである。

187 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/24(木) 19:41:39

     孔明はこの様に、兵農合一政策と水利灌漑事業を展開して一挙に農業生産を向上させ、地方豪族の既得権益
     を取り上げ、賦税の軽減を計る等、農民の負担を軽くして彼等の生活を安定させた。当然、国庫の収入にも
     安定を来たす結果をもたらした。

     塩と鉄は益州の重要産品であった。経済発展には欠かす事が出来ない資源である。中国の奥地には塩分を
     含む地層が多い。蜀地方の精塩業は西漢王朝(前漢)の時には既に、発達していて各地に塩井が掘られて
     いたという。製塩技術もかなり熟練していてある地方では已に、火井{天然ガス}を燃料に使用していた
     という。蜀地方の塩は"井塩”とも"煮塩”とも呼ばれ、井戸を堀って上部に滑車を備えた塔架を置き、
     塩水を汲みだして塩鍋に移して塩水を煮て水分を蒸発させて塩を採取した。

188 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/24(木) 19:42:22

     中国には各地に鉄鉱石の鉱山があって、露天掘りが今も行われている。此は孔明の時代も変わらない。
     蜀の周辺にも鉄鉱石が埋蔵されている山が彼方此方に在って兵器や農機具を鋳造していた事が多くの史書に
     記載されている。孔明は鋳鉄官に鋳鉄技術に精通した者を選んで兵器や農機具の品質改良を目指した。
     鋳鉄官の郭達は一夜に三千本の箭を打ち、"神手”と称されて将軍に封じられたという。鋭利な兵器の改良
     は軍の強化に貢献し、製鉄技術の発達は農機具に改良が加えられて農業生産の増強に大いに役立つ事に
     なる。今も昔も軍事技術の発達が一般の生活機器の改善に繋がる事に変わりがなかった。

     鉄に限らず金、銀、錫等の鉱山も開発されて蜀漢王朝の重要輸出産品と為り、国庫を潤した。
     錫は今でも四川省に多く産出している。朱堤に産出する銀は純度が高く、
     他地方で産出する銀に比べて1.8倍の高値で買い取られたという。孔明は精塩工業や製鉄工業に対して
     国家管理機構を設立して「司塩校尉」、「司金中郎将」の職を設けて
     これらの資源を国家の独占事業とした。

189 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/24(木) 19:43:09

     蜀錦の名で有名な蜀のシルク工業は早くから、此の地方に発達していた。東漢時代(後漢)の墳墓から
     桑苑の図や織機の石刻が発見され、漢の時代には一般的にシルク工業が普及していた事が判る。
     彼は蜀錦の重要性に着目をし、特別に「錦官」という官庁を設置して専門にシルク工業を管理させた。
     成都の別名「錦官城」は此処から来る。「臨終の表」には、彼の家には八百株の桑の木が植えられている
     と彼自身が述べている。
     「後漢書」には曹操が “人を派遣して蜀錦を買い求め、宮中の礼服に用いた。”という記載がある。
     当時、蜀錦は全国に知られた特産品で、蜀の経済立て直しの切り札となった。


     又、貨幣の鋳造も手がけ、"官市”という市場を設立して専任官吏を派遣し、徹底した市場価格への介入を
     行って諸物価の安定を計った。湖北省や雲南省で孔明の発行した"直百銭”の銭弊が見付かっている。
     この様に農業生産の向上、塩、鉄,錦等の資源、特産品の発達は蜀の経済発展に大きな寄与をした。

190 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/24(木) 19:44:10

     “政は民を安んずるを以て本と為す。”という孔明の基本思想が諸政策に反映された結果、
     構造改革は三年で成功裏に終わって、蜀漢国は "食足りて兵足る。”という安定さと富裕さを
     得るのである。

195 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/24(木) 20:51:15
     >>180
     公平であった、とか賞罰をはっきりさせた、とか指針の記述ばかりで
     具体的な功績の記述は少ないんだな

197 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/24(木) 20:57:26
     >>195
     陳平が宰相の仕事について「陛下を補佐し、外敵に目を光らせ、万民を手懐け、
     役人に職務を全うさせることです」と言ってる。
     個々の政策を担当するのは下の官僚。指針を示し、大局的な国政の判断と決裁をするのが宰相の仕事。
     だから、これでいいんだよ。

198 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/24(木) 21:06:44
     >>197
     宰相の仕事はわかったが、
     だったら君主は何やるの?

199 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/24(木) 21:26:56
     >>198
     人それぞれ。自分でも政治に励む人もいれば、
     自ら軍を率いて戦争だけしてる人もいれば、
     自分では何もしないで有能な人材に任せきりな人もいる。
     どれが理想の君主と言うことはない。
     得意分野で業績を上げられるのが良い君主。
     それを補佐するのが宰相の仕事

281 :無名武将@お腹せっぷく:2010/10/21(木) 03:09:21
     入蜀から漢中戦までは上昇気流だったんだが・・・・・
     荊州奪われた以上に、夷陵の大敗で失った人材と兵が痛かった気がする
     劉備も関羽も、陸遜の値踏みが甘かった点で同じだったみたいだな

     呉は呉で、上手い具合に失った人材を埋める人物が出て来るもんだが

282 :無名武将@お腹せっぷく:2010/10/21(木) 23:57:29
     >>281
     孫権の人事能力の高さもあるが、前任者が死ぬ前に後任を推挙したりしてたし。
     ただ、その後任が前任の能力をカバー出来るだけの人物だった点が呉の強みか。
     劉備は黄権一人使いこなしてないし、諸葛亮も馬謖の運用をミス、関羽や張飛は
     言うでも無く寝首をかかれる人間関係。
     漢中戦のベストメンバーが半分くらいしかいないのに、他国に喧嘩売った時点で
     終了フラグ立ってたんじゃね・・・

283 :無名武将@お腹せっぷく:2010/10/22(金) 13:10:16
     張飛も法正もいないし、黄権の献策はスルー 戦略・戦術面での欠員が致命的だな

284 :無名武将@お腹せっぷく:2010/12/30(木) 13:28:23
     正史の読み方によっては魏延は豪族出身。

     義陽の出身(新野の近く)+部曲(豪族の私兵)をひきいて益州入り

     義陽の豪族で、劉備に従って荊南に移り、益州入りに従軍

     まぁ「部曲をひきい」ってただの部隊長とかそういう意味だろうけどね。

285 :無名武将@お腹せっぷく:2010/12/30(木) 16:19:53
     大して大きくない部曲を率いて将軍の誰かの指揮下に入ってた可能性もある。
     益州平定後に魏延は牙門将軍に昇進してるから、
     それ以前は校尉あたりだったろうね。

286 :無名武将@お腹せっぷく:2010/12/31(金) 03:57:36
     蜀の命運を握っていた人物

     劉備:中原の戦乱を生き残り、幽州から益州へ流浪の末に蜀漢を建国。
     関羽:劉備の宿将。三国の要衝である荊州方面を任され、失った末に斬首された。
     諸葛亮:蜀漢の丞相。政治と軍事に辣腕を奮うが、志半ばで五丈原に没した。
     劉禅:蜀漢の二代皇帝。宦官に踊らされ、放蕩生活に興じた末に国を売った。
     姜維:漢中方面の軍事を担った魏の降将。北伐を繰り返し、国力を衰退させた。

288 :無名武将@お腹せっぷく:2011/01/03(月) 11:49:16
     >>284
     劉表やら韓玄やらに仕えてたとかって根拠ないんだっけ?

     >>286
     劉禅より劉禅を躍らせた宦官が命運握ってたんじゃね?
     個人的には孟達の動向も影響大きかったと思う。

289 :無名武将@お腹せっぷく:2011/01/03(月) 19:45:21
     >>288
     そういう記録はまったくない。
     出身地的に劉表の部下やってた可能性はあるかも知れないけど、
     伝記のある蜀将の中で、劉表の部下やってた奴は、
     みんな劉表の下で何やってたかさらっと触れられてるから、
     本伝にも注にも記録ないって事は、たぶん仕えてなかったんだろう。

291 :無名武将@お腹せっぷく:2011/01/04(火) 23:57:40
     諸葛の南征の時、孫権が任命した太守を攻撃したことは問題にならなかったの?

292 :無名武将@お腹せっぷく:2011/01/10(月) 18:42:47
     孫権なんてどうにでもなっただろ
     同盟結んだし、劉備は返り討ちだったけど大打撃与えたし・・・・・

293 :無名武将@お腹せっぷく:2011/01/10(月) 19:54:27
     >>291
     もともと、あれは蜀をかきまわすために太守の称号やっただけだから、
     呉と蜀の関係が回復して、蜀と戦う必要が無くなったら孫権はどうでもいい。
     必要無くなった捨て駒なんてどうなっても、気にする奴いないだろうし。


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三国志 | 【2011-01-14(Fri) 19:46:50】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
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